2011年01月07日

夫婦別姓求め初提訴へ=「憲法違反」と国賠請求―東京地裁/いよいよ特亜志向が前面へ!

今までは、特亜に支えられた民主党がこっそり(笑)と推進していたのである
が、いよいよ全面に出てきたという感じである。本ブログには、同問題の 考察
があるので、参考にして頂けると嬉しい。知ったらず、未検討のことがあれば随
時追加する。
http://drmatayan.seesaa.net/category/8242330-1.html
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夫婦別姓求め初提訴へ=「憲法違反」と国賠請求―東京地裁
時 事通信1月6日(木)20時29分配信

 夫婦別姓を認めない民法の規定は、夫婦が同等の権利を有するなどと定めた憲法に違反するとして、男女5人が国や自治体を相手取り、別姓で出した 婚姻届の受理や計約500万円の国家賠償を求める訴訟を東京地裁に起こすことが6日、分かった。2月にも提訴する。
 原告側の弁護士によると、夫婦別姓を求める訴訟は初めて。選択的夫婦別姓制度の導入に向けた議論に影響を与えそうだ。
 訴えるのは、富山市の元高校教師塚本協子さん(75)や東京都、京都府の計5人。1985年に女子差別撤廃条約を批准し、96年には法制審議会 (法相の 諮問機関)が選択的夫婦別姓制度の導入を答申したにもかかわらず、民法を改正しない立法の不作為で、精神的苦痛を受けたなどと主張する見通しだ。
 塚本さんは「民主主義の世の中なのに、女性が姓を変えるべきだという因習になぜ縛られないといけないのか」と話している。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110106-00000131-jij-soci

<コメント>憲法は女性が姓を変えるべき、なんて言っていない。提訴者はちょっとおかしいのではないか?耄碌しているのだろう。あるいは、推進している特亜・民主党もおかしいのではないのか?
posted by Dr.MataYan at 12:50| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 夫婦別姓問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月27日

6.夫婦別姓文化は同姓文化よりも程度が一段低いのではないか?

人間には”甘える”という性質があります。甘えの構造の著書で有名な土居健郎は”依存欲求”と説明しましたが、それだけでは甘えの本質を語っていないと思われます。再定義すれば、”。。。。。。。。。。うっ!

ここまで書いてきたら(^^;、今までなんども書いたはずの定義がでてこないのです・・・・。う・・・、もう頭がイカれ始める寸前のような気がしてならない・・・・。笑い事ではなくなったようです(笑)。自分の書物を参照する恥ずかしいことになっている・・・

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posted by Dr.MataYan at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 夫婦別姓問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

5.夫婦別姓は親子別姓なのだ

夫婦別姓問題は、単に夫婦間だけの問題ではないというのは明らかでしょう。夫婦が別姓になりますと、必然的に、子供がどちらかの親とは親子別姓になってしまうという問題が発生してしまいます。したがって、別姓問題は、夫婦という大人だけの問題として考えるのではなく、親子という家族の問題として考えるのがより根源的であると言えます。なぜなら、前にも述べましたように、夫婦だけだと、人間(に限らないが(笑))はそのカップルの世代だけで消滅するが、親子だと、理論的には永遠に続いていく可能性を持つからです。

夫婦は、改姓が社会的不便をきたすというような現実的問題への対処として有効であるにせよ(そんなことが実際にあるかどうかはこの際おいておこう)、親子が別姓になるということをどのように評価するか、という問題になるのではないでしょうか。特に子供の欲求の充足という観点からは、欲求の充足が阻害されることがあれば、これは社会治安の悪化に貢献することなので、国策としては極めて重要な問題なのであります(注:”子供の欲求充足”というといかにも”甘やかし”のような印象を与えますが、そうではありません。基本的欲求というものは、それがあれば病気を防ぎ、それがなければ病気になり、それが取り戻せれば病気が治る、という性質を持つものです)。
 

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posted by Dr.MataYan at 16:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 夫婦別姓問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

4.同姓・別姓が互いに他に与える嫌な思いについて

夫婦同姓派の主張を通して法制化されますと、夫婦別姓派は必然的に嫌な気持ちを覚えるでしょう。同様に、夫婦別姓派の主張が通ることになると、夫婦同姓派が嫌な思いをすることになりますね。ここで、両者の”嫌な思い”について考えてみたいと思います。

夫婦別姓というのは、相手方の苗字を名乗ることを拒否し、自分の親(祖先代々)からの苗字を継ぐ、ということです。つまり、縦の関係を重視しようというものなのです。一方、夫婦同姓というのは、夫婦のいずれか一方の縦の関係よりも、現在の夫婦の横の関係というか、それを重視しようとするものということができます。

もし夫婦に子どもがいなければ、夫婦だけの問題として一代限りのこととなります。そのうち、夫婦は、何事もなかったかのように、消滅してしまいます(笑)。ところが、子供がいる場合には、いわば先祖代々・子々孫々の問題となるわけです。ここに大きな違いが両者にはあることが分かります。

原則的には、夫婦同姓の場合には子供も同姓となり、夫婦別姓の場合には子供は両親のどちらか一方と同姓となります。


まず”嫌な思い”なるものの本態を考えてみます。人間はどういうときに嫌な思いをするのでしょうか。一般的にいえば、それは自己の欲求充足が阻害されるときであるときです。すると、別姓反対派が別姓制度が導入されると嫌な思いを覚えるのは何か?ということになります。同様に、別姓賛成派が同姓制度に対して覚える嫌な思いは何か?ということです。

このことを考えるには、名前が同じ・違うということの心理を考える必要があると思います。心理的には、名前を同じにする、というのは、相手に同一化する、ということでしょう。換言すれば、甘えるということです。したがって、別姓制度が適用されると、別姓反対派は、夫婦・親子間で甘えの心理が充足されにくくなり(という予感により)、違和感を生じることになるかと思われます。同姓制度下においては、別姓賛成派は、自己の原家族(家系)から外れるような印象を覚え、これが違和感となると思われます。つまり、原家族・家系に所属していたいという欲求が強いと考えられるのですが、これが阻害されるわけです。


互いに相容れない((笑))二者が争っている時、これらに共通なものはなにかというと、彼・彼女らは同一国の国民であり、その国家において子々孫々の繁栄と和合の達成という視点が共有可能ではないでしょうか。決して自分達だけが良ければ後は野となれ山となれではないはずだ(そういう人もいないとは言えないのですが(^^;)。

子々孫々が繁栄し和合が達成されるというのは、社会治安の向上と維持がその達成結果として現れるであろうことは疑う余地がありません。和が達成された社会なのだから、当然のことでしょう。それには、しかし、国民の欲求充足を抑圧した結果の、表面だけの和合では意味が無いと言えます。ここでの議論からすれば、賛成派も反対派も、それなりの欲求が充足される必要があるわけです。

ここで、個の欲求と公の欲求(社会治安の維持)の充足遂行過程に矛盾が生じるときには、原則的には、公の欲求を優先させる心意が必要とされるだろうということを前提にしたいと思います。
社会治安の向上と維持がなされるには、その結果として、社会の構成員の個人的な欲求がそれなりに充足される必要があります。

個人的欲求は、別の表現をすれば、”甘え”です。甘えの構造の著書で有名な土居健郎によれば、人間が甘えたいのに甘えられないと、その程度に応じて、拗ね、僻み、恨み、不貞腐れ、自棄糞の心意が発生すると言います。犯罪や非行の原因は、すべてこの心意が原因であるわけです。加えて、甘えたいのに甘えられない状態にある人には、嫉妬の心意が発生しやすいというのも人間の特徴であり、人間関係における欲求充足を阻害する要因であることに注意しましょう。

posted by Dr.MataYan at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 夫婦別姓問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3.夫婦別姓の国は儒教国だが五常、五倫が見られない

次に、この問題を世界的視点で捉えてみましょう。

世界的には夫婦同姓が多いかと思いますが、いわゆる特亜三国とよばれる国(正式には国とは呼べないものもありますが)、中国、北朝鮮、韓国では、儒教に基づく思想が普及しており、夫婦別姓制度を取っています。

儒教というのは、孔子を始祖とする思想・信仰体系のことで、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教えるものである(ウィキペディア)。

ところで、ある都市に、至る所に、”交通安全”と書かれた垂幕が掲げられていたとしましょう。これは、その都市は交通が不安全であるので安全にしたい、皆気をつけよう!という意味であることは誰でも分かりましょう。つまり、交通安全が主張されるところは交通が安全ではないからであるわけです。


このような視点から、儒教の五常を考えてみます。現在の中国や韓国の国レベルでの言動を見て、それが実現されているとはとても考えにくいのでないでしょうか。実現されるのが望ましいのですが、実際にはそんなことが全く無いので、儒教が普及したと考えられるのではないでしょうか。つまり、特亜三国には、五常と五倫がもともと欠けていたと考えられるのです。

ウィキペディアから引用しますと、

仁  人を思いやること
     孔子は仁を最高の徳目としていた。


義   利欲に囚われず、すべきことをすること。


礼   仁を具体的な行動として、表したもの。


智   学問に励む


信   言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。


であるわけですが、智は実情はどうかは知りませんが、他の仁、義、礼、信は、例えば、毒餃子事件などでの中国の対応、長野オリンピックでの中国人の言動、歴史認識問題等における中国や韓国の日本との共同研究における言動、などを見れば、全くそのような徳目は備わっていない、と断言しても過言ではないでしょう。だから、中・韓国においては、五常が備わっていないから、そして人々はそのような資質を理想としているから、強く求められていると考えてよいのではないでしょうか。

少なくとも五常の四つの徳目が国や組織を代表する人に全く見られないという中国や韓国において、夫婦別姓が制度として存在するということです。徳目が獲得されていないという国は、治安が悪い、と言い換えても良さそうです。

日本は、治安の良さは、世界に冠たる存在です。そして、明治以降に夫婦同姓の制度を確立しました。昔は、例えば、源頼朝と北条政子夫妻のように夫婦別姓であったのですが。それまでは、平民、農民には、名だけであり、苗字はなかったそうです。しかし、天皇家も、名だけであることに注意しましょう。

社会治安の良し悪しが夫婦同姓・別姓と関係するものかどうか、ということが明らかになれば、社会治安の向上を願って、夫婦同姓を採用することが国のシステムとしては良いのは明らかとなります。
ラベル:儒教 夫婦同姓
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2.同じ土俵での議論

親子関係というのは、現在を生きる親と子の関係だけではありません。親もまたその親からすれば子なのでありますから、これは先祖代々、子々孫々にわたって続く問題でもあるわけです。家族の絆は、核家族における夫婦と親子に限るものではないわけです。家族の絆のこういう面を考えると、いろんなことが分かるようになります。
ここでちょっと話が飛びますが、例題的に考えてみます。


夫婦別姓問題が提起するのはなんでしょうか?心理的視点から見てみましょう。

ツイッターで”家族の絆”で検索したときに現れたものですが、


> sakuro RT @rose_m: NHKで選択制夫婦別姓制度についての番組。「別姓だと家
> 族の絆が薄れる気がする」という意見の存在に驚く。そんなことで壊れるよう
> な絆しか持っていないなんてお気の毒に。「選択制」なのだから反対する意味
> も理由もない。自分が選ばなくても選びたい人の家庭のことは放っておけばい
> いと思います。 about 10 hours ago from Echofon


というものがありました。


要点は、(1)別姓だと家族の絆が薄れる、(2)選択制なんだからそんなことは関係ない、ということです。これは、賛成派、反対派の意見をよく表しているものと思えます(もし違うのであれば例示していただけると助かります)。このことが意味するのは、そして、両派に共通に言えるのは、自分に都合の良い(と思われること)を他人に押し付けるな)ということではないでしょうか。そういう視点に立てば、別姓派の意見がもっともなようにも感じられます。しかし、それは違います、というか、どっちもどっちなのであるということに気付く必要があります。


(1)別姓賛成派にとっては、それは選択的、つまり、そうしたいものはそうし、したくないものはしない、という制度なんだから、いいのではないか?


(2)別姓反対派にとっては、家族の絆というものが薄れる傾向にある現場をみると、別姓によって、絆の希薄化がさらに加速するのではないか?


というものでしょう。一見しただけでは対局にある、つまり正反対の立場のようですが、これら両方の論が、まずは同じ土俵におくことが出来るかどうかがひとつの大きなポイントになるかと思います。 


しかし、次のような視点、


子々孫々の繁栄と和合を達成する


という土俵には両論ともたてるのではないでしょうか。これには、もちろん、我々も子々孫々の一部ですから、我々の繁栄と和合も意味するのは当然です。

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2010年05月26日

1.”絆”が持つ二面性

夫婦別姓問題において、”家族の絆”は守るべきものと別姓反対派は主張するようです。また、別姓賛成派は、別姓にしたら薄れてしまうくらいの絆しか別姓反対派は持っていないのか?といいます。このような問題は、形の上では(というか無機質?に考えれば(^^;)、どうでもいいのかも知れないなということにつながるやも知れませんが、本当は、優れて心理的な問題ではないかと思うのです。心理学的に考えた人はいらっしゃるのでしょうか?


”絆”というものの意味を辞典(大辞林)で調べてみると、


絆=家族 ・友人などの結びつきを、離れがたくつなぎとめているもの。


というものですね。家族の絆という場合、一般的には、良い意味で使われているようですが、人間が関する限りすべてに二面性があるということからすれば、決して良い意味だけではなく、悪い意味も存在するはずです。なにか助け合うような感じの良い意味と、何かにつけて憎しみあい虐待しあうというような悪い意味がありますね、実際には。家族の絆というものの二面性に着目するとき、その大切さについての受け取り方には、対極的なものがあっても当然だということになります。

二面性を持つ”絆”というのがどのようにして発生するのか・・・。それは親子関係の絆と呼べるものから発生することがわかっています。例えば、よく知られているように、虐待というものは、自分が親などから受けているときに自分もしてしまう、という世代間伝達と呼べる現象があります。つまり、現在を生きる我々が持つ家族の絆は、その性質は、親子関係、敷衍するならば先祖代々からの関係で決められてしまっているという部分があるわけです。つまり、家族の絆の基本には親子の絆というものがある、家族の
絆は親子の絆を反映するものである、ということなのです(続く)。

posted by Dr.MataYan at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 夫婦別姓問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする